明礬温泉坂道物語 明礬温泉を歩いてみると、ここには平らな場所が存在しないことに気づくことと思います。そもそも、このまちへのアプローチも坂道から始まるのですから。

ここにしかない

 全国でもここだけ・・・・明礬温泉がそう胸を張っていえるのは、後にも先にも、ここに類まれな温泉が大昔から噴き出しているからです。温泉だけではありません。そこに噴気と青粘土の土が作用して、かつては金や銀に並ぶほど希少価値のあった質の高いミョウバンを製造する事の出来る宝の山だったのです。今では、そのミョウバンをたっぷりと含んだ湯の花が湯の花小屋で精製され同じく豊かな成分を持つ温泉がまちのあちこちに湧き出ています。

 このようにして、明礬温泉の歴史の中には、ミョウバン産地としての歴史と温泉に通じる歴史が溶けあうように織り込まれています。そんな時代の手がかりが、坂道に残されているとしたら、ちょっと興味深くなってきませんか?

雨の日の明礬温泉は霧に包まれることも。噴気と霧が溶けあう様の美しさ

雨風に耐え、噴気にも耐え、明礬の斜面を支えてきた石垣

 そもそも温泉の上にまちがあるような明礬温泉です。今では建物が建っているような場所でも、江戸時代は湯の花小屋だったところかもしれません。中には作業場の名残のような石段も見つけることができます。大量の雨が降って土砂が流れた後に、その土砂の中に石を埋め込んで簡易的な階段を造った跡も残っています。共同の打たせ湯があった場所に通じる階段もなかなか魅力的です。目的地が取り壊されたにもかかわらず、階段だけが残されている、そんな不思議な空間も明礬ならではです。また、明礬のお隣にそびえ立つ鶴見山は数百年前に噴火した山ですが、別府の町では、その時に飛び散った石を「別府石」と呼んで、掘り出したものを石垣や塀に使った時代がありました。金属やコンクリートをもボロボロにしてしまう温泉の町では、噴火に耐えた強い石ならちょっとやそっとでは傷まないと思われたのかもしれません。明礬温泉でも同様にこの別府石を使った石垣が残っているそうです。

 それぞれの坂道や石段にもストーリーのある明礬温泉ですが、そんなことを何も知らなくてもちょっとそぞろ歩いてみたくなる・・・じつは、それこそがここの坂道の本当の魅力なのです。道の脇から噴気が上がっているちょっとワイルドな坂道。すれ違う時にほんのちょっと肩と肩が触れそうになるそんな人情サイズの坂道。木々や花々が出迎える四季の坂道。そして、坂道ごとに一味違った明礬温泉の風景が楽しめる景色の坂道。小さな小路に、小さな発見が潜んでいるかもしれません。


古い石段や坂道はやがて自然とも同化していく。苔むし、石の隙間からはこんな可憐な野草が花をつける

明礬温泉の小道はほとんどが坂道。坂道ごとに表情がある

秋の始め、赤い実をつけるヤマボウシ。でもその花は真っ白なのだとか


旅館の庭先の秋の味覚がお膳に上ることもある

坂道は大切な生活路。でも、季節の草花たちが道幅を決めている

公民館にはかつての明礬温泉の様子を写した古い写真が飾られている


書き残した地図

 明礬温泉の山の神神社跡の公民館には額に入れられた一枚の地図があります。このまちで生まれ、このまちで育ち、働き、そしてこのまちで亡くなっていった野上三郎さんが80歳の年に明礬温泉への恩返しのつもりで描きあげた明治から大正の明礬温泉の地図。そこには長年ここで暮らした野上さんだからこそ加えることができた貴重な情報が含まれています。そこがこの地図の面白さでもあります。つまり、この地図は野上さんの記憶の地図でもあるからです。

 旅館や民家などが一軒、一軒、野上さんの記憶に残る形で記されています。地図には旅館の呼び名や世帯主の呼び名が記されていますが、これらは公式の文書などにはなかなか残らない、その土地の人ならではの情報です。これらを等しく、公平に書き残そうとする野上さんの人柄が見えるようです。また、併記されている歴史年表には初めて電灯が灯った年や開通した鉄道のことが記されています。明礬温泉の人たちの喜びや誇りが年表の中に浮かび上がるとともに、野上さんのこの土地への温かい思いがにじんでいます。

 天下無二の恵みを受ける一方で、度重なる山崩れなど災害に泣かされた明礬温泉。それでも祖先たちはじっと耐え、くじけることなく、この土地と温泉を大切に守り続けてきました。この地図を挟んで野上さんの娘の輝子さんと豊前屋旅館の若女将の好恵さんの話がはずみます。「これは◎◎ちゃんとこ?」 「そう、昔はその辺りも・・・・」。野上さんの地図は、世代を超えて、今では貴重な手掛かりになっているようです。

野上さんは地図を描くために建物一つ一つのデッサンを丹念に行っていた。そのスケッチブックが数冊にもなる。描き終えたのは亡くなる前年のこと